直系家系図。

2012/6/4 09:58
三重県いなべ市在住の市川Mと申します。長女が産まれたことをきっかけに、家系に興味が湧きました。戸籍などから家系図を作成したのでとりあえず公開しておきます。
まだまだ調査中ですので、何かしら関わりがありそうな方々、コメント頂けると大変嬉しいです。

(※そのうち、それぞれの家に対して記述していく予定です)

市川家 市川O家
市川 庄右エ門
(庄助)  
次男 市川 源次郎
(源治郎)
  市川 里と
 
  長男 市川 甚右衞門
市川又左エ門家
  市川 又左エ門
 
  長女 市川 りゑ
 
 
 
  長男 (榮次郎)
和田本家 和田藤八家 市川 源十郎
  和田 利右エ門
 
  長男 和田 藤八
 
 
 
  長女 市川 者つ(はつ)
 
 
 
  和田 たい
 
 
 
 
  梶家
 
 
  梶 重五郎
 
 
 
  長男 梶 彌五兵衞
 
 
 
 
 
 
 
  三女 市川 すへ
伊藤家
  伊藤 長左エ門
 
  次男 片山 安右エ門
 
 
 
  長女 梶 みし
片山家
  片山 惣右エ門
 
  次女 片山 やの
 
 
 
  養子 市川 哲二
  森家 松井七二家 次男
 
 
  森 平九郎
 
 
 
  三男 松井 平兵衞
 
 
 
 
 
 
 
  四男 松井 七二
(藤吉実家)
 
 
  ? 藤吉
 
 
 
  長女 松井 登み(とみ)
松井本家
松井 勘右衞門
 
  松井 まつ
 
 
 
 
 
  四女 松井 つる
  (文枝)
  次男 市川 O
  市川甚市家
  三男 市川 甚市
 
  長女 市川 K
水谷家
  水谷 忠治
  (忠次)
  長男 多湖 忠八
 
 
 
  長男 多湖 荻右エ門
多湖家
多湖 平治
(宇平)
  長女 多湖 みし
 
  多湖 とふ
 
  次女 市川 靏惠
  田古家
 
 
  田古 五郎兵エ
 
 
 
  次女 多湖 里へ(りへ)
 
 
 
 
 
 
 
  長男 市川 M
山田家 岩上家 山田家
 
 
  山田 篤 養子 岩上 貞三
  次男
 
 
  養子 山田 酒井
竹本家 次男
竹本 忠右衛門
 
  竹本 久右エ門
 
 
 
  長男 竹本 久右エ門
牧田家
  牧田 傅右エ門
 
  四女 竹本 いと
 
  牧田 のぶ
 
 
  野村家
 
 
  野村 源助
 
 
 
  長女 竹本 ぶた
  (うた)
 
 
  野村 いし
 
 
 
  長男 竹本 一夫
岩上家 竹本家
 
 
  岩上 小平
 
 
 
  岩上 小平
斉藤家
  斉藤 才兵エ
 
  岩上 奈み(なみ)
 
 
 
  次女 竹本 ゑま
  三村家
 
 
  三村 義左エ門
 
 
 
  長女 岩上 きす
 
 
 
 
 
 
 
  三女 市川 A
  藤木家
 
 
  藤木 勘平
 
 
 
  次男 (勘右エ門)
  宇都宮 勘助
 
 
 
 
 
 
  次男 (瀧藏)
  宇都宮家 宇都宮 勘右エ門
 
 
  宇都宮 勘右エ門
 
 
 
  長女 宇都宮 よ三(よみ)
 
 
 
 
 
 
 
  五女 竹本 まつの
  和田乙右衛門家
 
 
  和田 乙右エ門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  養子 和田 栄三郎
  寺崎家 次男
 
 
  寺崎 七右エ門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  長女 宇都宮 はる
  和田佐太夫家
 
 
  和田 佐太夫
 
 
 
  長女 和田 す三(すみ)
 
 
 
 
 
 
  長女 市川 T
 
  小飯田本家 小飯田Y家 長男 市川 Y
 
 
  小飯田 與四郎
 
 
 
  長男 小飯田 乙造
 
 
 
 
 
 
 
  長男 小飯田 熊太郎
  渡邊家
 
 
  渡邊 祐松
 
 
 
  長女 小飯田 チセ
 
 
 
 
 
 
 
 
金子本家 金子山造家
  金子 三左エ門
 
  金子 三太郎
 
  金子 クヨ
 
  次男 金子 山造
 
 
 
  金子 ウメ
 
 
 
  次女 小飯田 トミ
  小林家
 
 
  小林 政之助
 
 
 
  長女 金子 モン
 
 
 
  小林 トミ
 
 
 
  養子 小飯田 Y
  次男
  次男 石田 與太郎
 
 
  旭家
 
 
  旭 幸造
 
 
 
  次男 石田 駒造
 
 
 
  旭 トノ
 
 
 
  次女 石田 チセ
石田家
  石田 重右エ門
 
  長男 石田 重吉
 
 
 
  次女 石田 サツ
 
 
 
 
 
 
 
  次男 小飯田 Y
  齋藤家
 
 
  齋藤 平作
 
 
 
  齋藤 藤作
 
 
 
  齋藤 ト子
 
 
 
  次男 齋藤 幸止
 
 
 
 
 
 
 
  齋藤 ハツ
 
 
 
 
 
 
 
  四女 小飯田 M
  佐藤家
 
 
  佐藤 善吉
 
 
 
  次女 齋藤 キノ
 
 
 
  佐藤 トヱ
 
 
 
 
  加藤家
 
 
  加藤 藤左エ門
 
 
 
  長男 加藤 寅平
 
 
 
  加藤 タオ
 
 
 
  次女 齋藤 ミヨシ
  小林家
 
 
  小林 縫造
 
 
 
  長女 加藤 ノセ
 
 
 
 
 
 
 
  長女 市川 H
  鍾家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  鍾 傳貴
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  養子 鍾 菊妹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  鍾劉 和妹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  養子 鍾 S
  張家 六女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  張 昌乾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  張 長妹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  黒字 戸籍
  青字
  赤字 他家系図
  (市川哲二作、竹本K作)
  紫字 墓と他家系図の一致
  緑字 その他伝聞等
  親子
 
  養子
 
  離縁養子
 
  婚姻
 
  離婚、死別後婚姻解消
 
 

市川家
三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市

市川又左エ門家
三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市

和田家
三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市

梶家
三重県員弁郡平野新田→山郷村→北勢町→いなべ市

片山家
三重県員弁郡平野新田→山郷村→北勢町→いなべ市

松井家
三重県三重郡下野村→四日市市

松井七二家
三重県四日市市

森家
三重県朝明郡西大鐘村→下野村→三重郡下野村→四日市市

多湖家
三重県員弁郡下笠田村→笠田村→員弁町→いなべ市

水谷家
三重県員弁郡下笠田村→笠田村→員弁町→いなべ市

田古家
三重県員弁郡高柳村→三里村→大安町→いなべ市

山田家
福井県吉田郡丸山村→円山西村→福井市

竹本家
福井県吉田郡丸山村→円山西村→福井市

牧田家
福井県足羽郡和田中村→和田村→福井市

野村家
福井県吉田郡丸山村→円山西村→福井市

岩上家
福井県吉田郡丸山村→円山西村→福井市

斉藤家
福井県吉田郡丸山村→円山西村→福井市

三村家
福井県吉田郡重立村→東藤島村→藤岡村→福井市

宇都宮家
福井県足羽郡西方村→和田村→福井市

藤木家
福井県足羽郡西方村→和田村→福井市

和田乙右衛門家
福井県足羽郡和田中村→和田村→福井市

寺崎家
福井県足羽郡和田中村→和田村→福井市

和田佐太夫家
福井県足羽郡和田東村→和田村→福井市

小飯田家
新潟県西蒲原郡横戸村→四ツ合村→潟東村→新潟市西蒲区

渡邊家
新潟県西蒲原郡横戸村→四ツ合村→潟東村→新潟市西蒲区

金子家
新潟県西蒲原郡四ツ合村→潟東村→新潟市西蒲区

金子山造家
新潟県西蒲原郡四ツ合村→潟東村→新潟市西蒲区

小林家(政之助)(横戸)
新潟県西蒲原郡横戸村→四ツ合村→潟東村→新潟市西蒲区

石田家
新潟県西蒲原郡島方村→四ツ合村→潟東村→新潟市西蒲区

旭家


齋藤家
新潟県西蒲原郡潟東村→新潟市西蒲区

佐藤家
新潟県南蒲原郡井栗村→三条市

加藤家
新潟県西蒲原郡水沢新田村→横戸村→四ツ合村→潟東村→新潟市西蒲区

小林家(縫造家)(熊谷)
新潟県西蒲原郡島方村→四ツ合村→潟東村→新潟市西蒲区

検索エンジン用
・表記違い、誤字、旧姓
市川庄右衛門
市川庄右衞門
市川庄助
市川甚右衛門
市川甚右エ門
和田はつ
梶すへ
松井哲二
梶彌五兵衛
梶弥五兵衛
梶彌五兵エ
梶弥五兵エ
片山安右衛門
片山安右衞門
片山みし
松井平兵衛
松井平兵エ
森平兵衛
森平兵エ
松井勘右衛門
松井勘右エ門
松井哲二
市川つる
多湖宇平治
水谷忠八
多湖荻右衛門
多湖荻右衞門
多湖萩右衛門(誤記)
多湖萩右衞門(誤記)
多湖萩右エ門(誤記)
市川鶴恵
多湖靏惠
多湖鶴恵
田古五郎兵衛
田古五郎兵衞
田古りへ
竹本久右衛門
竹本久右衞門
竹本貞三
山田貞三
竹本酒井
牧田傳右衛門
牧田傳右衞門
牧田伝右衛門
牧田伝右衞門
牧田いと
岩上ゑま
斉藤才兵衛
斉藤才兵衞
斉藤なみ
三村義左衛門
三村義左衞門
三村きす
宇都宮勘右衛門
宇都宮勘右衞門
宇都宮滝蔵
宇都宮まつの
和田乙右衞門
和田乙右エ門
和田はる
寺崎七右衛門
寺崎七右衞門
小飯田与四郎
小飯田與太郎
小飯田与太郎
渡邊チセ
金子三左衛門
金子三左衞門
金子トミ
石田重右衛門
石田重右衞門
旭駒造
佐藤キノ
加藤ミヨシ
小林ノセ

・役職
伊勢神宮
衛士長
寺子屋
北勢県民局長
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和田本家(和田利右エ門家)[三重県員弁郡大泉原村]

2012/5/31 00:59
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可能です。和田利右エ門家は、直系では利右エ門一人の名前しかわかっていません。利右衛門、利右衞門、利右ヱ門の表記のゆれが考えられます。
【家系図はこちら】

和田本家(和田利右エ門家)は、高祖母の父である和田藤八の実家にあたります。

【経過】
2012/02/24
 高祖母の父、「和田藤八」が載っている除籍謄本をようやく発行してもらうことができました。「藤八」の経歴欄に、『慶應二年三月十五日當村當大字(身分削除)和田利右エ門長男分家ス』とあり、「藤八」父親欄にも『亡祖父利右エ門長男』と記載されていました(この除籍謄本は「藤八」の長男である「K次郎」が戸主のものなので、K次郎から見た続柄は祖父となるわけです)。「利右エ門」は、私の高祖母の祖父にあたるわけで、直系のご先祖様が新たに判明しました。久しぶりの感動でした。
 さて、この除籍謄本から次のことがわかりました。

・「藤八」は「利右エ門」の長男。だが、分家しているので、墓もおそらく別々。
・「利右エ門」家は「藤八」家と同じ大字。
・この除籍謄本が作成されたのは明治二十九年三月三十日、この時には既に「利右エ門」が亡くなっている。

 ただ、この時はとりあえず、「藤八」の除籍謄本がとれた感動があったので、「利右エ門」家については、真剣に考察しませんでした。

2012/05/15
 「藤八」家の墓をもう一度よく見てみようと、墓地に訪れました。そこで、ふと、「利右エ門」家の墓が在るとするなら、この墓地にあるはずと思いつき、どうせ見つからないだろうくらいの軽い気持ちで墓石を探し始めました。「藤八」家の墓は墓地の割と奥にあるので、その近くの和田姓の墓などを注目しました。が、ありません。諦めて帰る際、墓地の入口付近に立派な和田姓の墓があることに初めて気づきました。ありました、「利右エ門」の文字が。墓石は結構新しいのですが、『慶応三年十二月 祖々父 利右エ門 七四』とあり、年代もまず間違いないようです。さらに注目すべきは、その左隣には、『明治四四年九月 祖父 R八 六七』とありました。この「R八」さんは、祖々父と表記されている「利右エ門」の子と考えるのが自然だと思います。我が高祖母の父、「藤八」の弟にあたるのでしょうか、「八」の名前が共通でした。
 墓石の裏にははっきりと、ご子孫の名が刻まれていました。新しい花も供えられていました。ご子孫の名前を電話帳で調べたところ近い住所に該当がありました。まず間違い無いと思っています。そのご当主も、墓を建てられた年代から推測すると、私の祖父母世代、結構ご高齢だと思います。
 墓石からは他に、没年月と没年齢がわかるので、次のことがわかりました。

・「利右エ門」は寛政7年くらいの生まれ。
・「利右エ門」長男「藤八」は文政12年生まれ、「R八」さんは弘化3年くらいのお生まれ。17歳差ですが、この時代ならよくあることのようです。
・「利右エ門」29才で「藤八」誕生、51才で「R八」さん誕生のようです。これもこの時代ならあり得るようです。
・「利右エ門」家から「藤八」が分家したのは、慶応二年なので、「利右エ門」が71歳、「藤八」が37歳、「R八」さんが20歳くらいの時になります。ちなみに、このすぐ次の年に「利右エ門」は亡くなりました。

【人物】
 和田利右エ門[寛政7~慶応3]は、私の高祖母の祖父にあたります。長男の「藤八」が載っている戸籍に名のみ現れましたが、その後墓地でもそれらしきお墓を見つけました。なぜか長男の「藤八」は分家し、弟と思われる「R八」さんが後を継いだようです。妻の名前は戸籍と墓石からはわかりませんが、「R八」さんの戸籍には記載されているかもしれません。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・勇気を出して、墓石と電話帳にある現当主らしき方へ手紙を出す。

※何かご存知の方、関わりがありそうな方々メールまたはコメント宜しくお願いします。m(__)m
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梶家[三重県員弁郡平野新田→山郷村→北勢町→いなべ市]

2011/11/2 15:17
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可能です。梶家は、梶重五郎が最も遡れるご先祖ですが、妻の名前がわかりません。長男の彌五兵衞が継いでおり、梶彌五兵衛、または梶彌五兵エ、梶彌五兵ヱの表記のゆれ、他に新字にするなら梶弥五兵衞、梶弥五兵衛、梶弥五兵エと梶弥五兵ヱなどがありえます。妻の梶みしは、片山家から嫁いでおり、片山みしでした。二人の三女の梶すへが市川家に嫁ぎ、市川すへとなりました。

【家系図はこちら】

梶家は、養曽祖母市川すへの実家にあたります。現在でも市川家現当主と梶家の親戚付き合いはあるようで、数年前、梶家の現当主の奥さんが亡くなった時に、伯父夫妻が葬儀などに出たと耳にしました。私はそこで初めて梶姓の親戚が居ることを知り、父に関係を尋ねたところ、

「多分、実家のおじいさん(市川家四代目源十郎)の代の奥さんの実家かなんかじゃないか」

おぼろげながらも珍しく知っていました。久しぶりに祖父哲二が作成した市川家家系図を見てみると、確かに梶家から、すへが嫁いできていることが記述されていました。
三十年以上生きてきて、全く知らなかった親戚が居ることに驚き、このことも家系に強く興味を持つきっかけとなりました。

その後梶家は戸籍がとれたので、ある程度はわかりました。墓は住所地の共同墓地にあることを確認したのですが、墓石は新しいものの、戒名のみで俗名がわからないので、墓から読み取れることはほとんどありませんでした。
現当主はご高齢ながらお元気のようで、父でも名前を知っているようでした。実は私も、ある病院の待合室でお姿をお見かけしたことがあります。取得できた戸籍にも載っており、特徴的なお名前なので、覚えのある「梶○○○さーん」という看護師の呼び出しにハッとして見たものです。よっぽど声を掛けたかったのですが、ご当主からしたら、「叔母が嫁いだ家の分家の二代目」なんて顔も存在も知らない訳で、遠くから眺めるだけにとどめておきました。

墓地の様子からするに、現当主であれば戸籍からわかる情報以上のものをお持ちだと思います。一度お聞きしたいとも思いつつも、直接の血の繋がりがない子孫って、どう思われるんだろうとも考えてしまって、何も行動にうつせていません。お元気そうとはいえご高齢でいらっしゃるので、後悔したくないのですが…。

梶彌五兵衞[天保11~明治39]は、私の養曽祖母の父にあたり、先代重五郎の長男です。養曽祖母のすへは三女で、市川家四代目、源十郎に嫁ぎました。明治5年の壬申戸籍編成前までに先代は亡くなっており、戸主になっています。死亡により長男の芳太郎に家督相続されました。明治19年式戸籍の中で亡くなっていることもあり、母の名前が戸籍からわかりません。

梶みし[嘉永2~大正9]は、私の養曽祖母の母にあたり、明治5年に片山家から梶家当主彌五兵衞に嫁ぎました。

梶重五郎[?~?]は、私の養曽祖父の祖父にあたり、梶家で戸籍で遡れる最も古いご先祖です。長男彌五兵衞の戸籍で名前のみ確認できます。明治5年の壬申戸籍編成前に死亡による家督相続が行われているようです。彌五兵衞が天保11年(1840年)生まれなので、重五郎が15歳~45歳であったとするなら、寛政7年(1795年)~享和~文化~文政8年(1825年)生まれと推測されます。妻の名前は戸籍ではわかりません。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・現当主がわかっており、そこまで疎遠でもないので、伯父に紹介してもらう。
・墓地では戒名しかわからないが、ひかえてないので控えておく。
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和田家(和田藤八家)[三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市]

2011/10/31 23:08
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可能です。和田藤八家は、和田利右エ門家から和田利右エ門長男の藤八が分家して始まりました。和田藤八と妻は和田たい、長女の和田者つ、和田はつは、市川家に嫁ぎ、市川者つ、市川はつとなりました。
【家系図はこちら】

和田藤八家は、高祖母市川者つ(はつ)の実家にあたります。

【経過】
2008/06/27
 市川源十郎戸籍から、「源十郎」の母、「者つ」の実家が和田家であり、父「藤八」、母「たい」であることがわかりました。住所から見ると市川家と同じ大字のようなのですが、集落内の墓には一つも和田姓が見当たらず、不思議に思っていました。

2008/07/18
 「和田藤八」「たい」で戸籍を調べてもらうと、「和田藤八」で名前が一致する人が居たそうでした。係の方も頭を悩ませてもらったのですが、娘である筈の「者つ」の名前が無かったことから、繋がりが証明できないからと除籍謄本の発行は見送られてしまいました。

2008/12/05
たまたま隣の集落の墓を別件(傍系の分家の墓探し)で調査していたところ、和田姓の墓が多いことに気づきました。不思議に思っていたところ、冊子を持ってうろうろしていた私に、近所の方らしいおじいさんに声をかけられました。分家した家の墓を探していること、直系で和田家があるのだが、戸籍にある集落の墓には見当たらず、この墓地にはたくさんあるのを不思議に思っていると伝えました。すると、

「ああ、ここの大字は昔その大字名(戸籍にあった大字名)で、そこから分かれたんだよ」

と教えてもらって大変助かりました。そのうち、もう一人顔見知りらしいおじさんも話に加わってくれ、高祖母の父母名(「和田藤八」「たい」)を見せて心当たりがないかと尋ねました。

「江戸時代の人じゃあなあ…」

と言いつつもお二人は、

「多分、H兵衛さん所かもしれないが、もう跡を継ぐ者が出ていってしまって…今はどうなっているか…絶えてしまったんじゃないだろうか」

そのH兵衛さんは、おじいさんの古い記憶からして「おじいさん」と呼べるほどの歳のようで、

「これがその墓だよ」

と、現代の墓が並ぶ墓地の中にたった一つ、ぽつんといかにも無縁らしい小さな江戸時代の墓を案内してくれました。一緒にいたおじさんは、

「ああ、これ、あのH兵衛さんの墓なんだ」

と初めて知ったようでした。おじいさんの話では、

「このH兵衛さんの子供の名前がH八と言って、あなたの探しているご先祖の名前と一致する部分がある。推測でしかないけども」

というような話をしてくれました。

「私も昔、先祖探しをしていたが、桑名市に行き着いてそこから先がたどれなくなった」

という話もしてくれ、私の調査も好意的に、且つ励ましてくれた記憶があります。どうやらお二人は和田姓だったようなので、今にして思えば、ずうずうしく連絡先をうかがっておいて、この地域のきっかけを作っておけば良かったとも思います。

2011/09/18
 市川家法事にて、市川家伯父に和田家について尋ねてみました。
「和田家は昔、たった一度だけ法事に行ったことがある。確かに隣の集落にあったが、今はもう多分無いぞ」
とのことでした。従兄弟伯父も同意していました。

2012/02/24
 長女である「者つ」の生年から、「藤八」の生年を推測し、大まかな居住地域を指定し、改めて除籍謄本を申請してました。熱意が通じたのか、こちらが用意した情報と矛盾が見当たらないからか、「和田藤八」が隠居して在籍する、長男が戸主になっている除籍謄本を発行してもらえました。実に三年越しで、この時の感動はとても大きく、出してくれた係の方にどれほど感謝したかわかりません。これにより、「藤八」は、「利右エ門」の長男であることがわかり、さらに一代遡れました。長男なのですが、利右エ門家から分家したとあるので、今後、分家した「藤八」は、和田藤八家初代とし、利右エ門家は和田本家とします。
 その足で墓地へも行きました。「和田藤八」、「たい」の名前が見つからず、無縁仏になっているのかと諦めかけ、やはり最後にもう一度と見て回ると、発行した除籍謄本に出てくる名前を見つけました。「藤八」、「たい」の名前は入っていませんが、先祖代々となっているのでここに眠っていることは確実とみなしました。その墓は、「藤八」の長男の五女の名前で、和田姓のままで建てられていました。
 伯父達の情報から、無縁になっているのかもと思っていたものの、花は飾ってありました。同じ敷地で、すぐ隣に別姓の墓がありました。この墓は、除籍謄本によると「藤八」の長男の嫁の両親の墓のようでした。このことからも、この墓が和田藤八家のものであるのは間違い無いです。同じ花が供えられていました。果たしてどちらの家のご子孫がお参りされているのでしょうか。

【人物】
和田藤八[文政12~明治33]は、私の高祖母の父にあたります。父和田利右エ門の長男で、長女の者つが市川家三代目、甚右衞門に嫁ぎます。者つの父として名前のみ確認できます。者つが安政3年(1856年)生まれなので、藤八が15歳~45歳であったとするなら、文化8年(1811年)~文政~天保12年(1841年)生まれと推測されます。明治19年(1886年)に存命であれば、45歳~75歳なので、戸籍に載っている可能性もあります。大正5年に編成された戸籍では、亡になっているのでその時点では亡くなっているようです。実は過去にいなべ市役所で、この姓名が記載されている戸籍はあったようでしたが、結局番地が伝わってないことで、者つとの繋がりが証明できず、発行してもらうことはできませんでした。長男なのですが、慶応2年に、利右エ門家から分家しています。明治29年に長男K次郎に家督を譲り隠居しました。子は長男K次郎の戸籍に、弟Y蔵が藤八三男として存在しているので、少なくとも三男一女はあったようです。

和田たい[?~?]は、私の高祖母の母にあたります。高祖母の市川者つが最初に登場する明治19年式戸籍では現れませんが、大正5年に編成された子の源十郎の戸籍に者つが載っているお陰で、名前が判明しています。生年を藤八と同様の推測をするなら、文化8年(1811年)~文政~天保12年(1841年)生まれ、大正5年迄には亡くなっているようです。夫藤八が隠居し、長男K次郎の戸籍が編成された明治29年には名前がないので、既に亡くなっているようです。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・伯父夫妻が法事に出ていることから、香典帳に関わりのある方の名前が載っている可能性が高い。
・香典帳から次代以降の当主の名前が判明したら、旧土地台帳から、その大字の土地を虱潰しに参照して番地を探す。ただし、藤八の名前だけだと生きた年代から考えると載っている可能性は低そう。それと、上述の通り、同姓同名の和田藤八が居るのなら危険。
・番地と次代当主の名前から除籍謄本を再度請求してみる。
・もう一度墓を探す。上述のH兵衛さんの墓をもっと丁寧に撮っておく。一応。
・和田藤八が分家した初代で、別に本家が存在していることを夢見て和田姓の方々に手紙を出す。→なんとこの願い通りだった。本家の跡取りさんもいらっしゃるようなので、手紙を出す。

※何かご存知の方、関わりがありそうな方々メールまたはコメント宜しくお願いします。m(__)m
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市川又左エ門家[三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市]

2011/10/29 08:53
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可能です。市川又左エ門は、市川又左ヱ門や、市川又左衛門、または市川又左衞門という表記のゆれが考えられるので注意が必要です。

【家系図はこちら】

市川又左エ門家は、高祖父の母である市川りゑの実家にあたります。私の姓である市川と同じですが、市川家の一員として戸籍にはでてきませんので、別家と考えられます。便宜上、市川又左エ門家としていますが、初代かどうかも全くわかりません。住所は同じ集落内で、同じ姓ということからもっと上の代で繋がっているかもしれません。
また、この又左エ門という名前で伯父や父、私ですら少し思い当たる節があります。近所の市川家で、「又」の字を名前に代々継いでいらっしゃる市川家があります。私はそういう家があるということをなんとなく知っていた程度ですが、父世代になると顔見知りのようなので、いずれ聞いてみると何かわかるかもしれません。ただ、唯一の接点となる又左衛門は相当昔の人なので、戸籍で繋がりを証明するのはかなり難しいとは思います。

市川又左エ門[?~?]は、私の高祖父の祖父にあたります。高祖父の母、市川りゑは長女で、市川家二代目の市川源次郎に嫁ぎます。市川りゑの戸籍に「弘化二年二月十七日本縣員弁郡笠田村大字○○○  市川又左エ門長女入籍ス」の文でのみ名前を確認できます。長女りゑが文政11年(1828年)生まれなので、又左エ門が15歳~45歳であったとするなら、天明3年(1783年)~寛政~享和~文化10年(1813年)生まれと推測されます。戸籍ができた明治19年(1886年)に存命であれば、73歳~103歳なので、戸籍に載っている可能性もあります。仮に100歳で亡くなったとしても大正2年(1913年)までで、それより後の存命の可能性は低そうです。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・「又」の字を継ぐ家を伯父に紹介してもらう。
・旧土地台帳から一番古い当主の名を調べ、その戸籍内に又左エ門と名前がわからない妻が入っていないか除籍謄本を請求してみる。
・集落内の墓地で又左エ門の名を再度探してみる。

※何かご存知の方、関わりがありそうな方々メールまたはコメント宜しくお願いします。m(__)m
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