和田家(和田藤八家)[三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市]

ブログ | 2011/10/31 23:08
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可能です。和田藤八家は、和田利右エ門家から和田利右エ門長男の藤八が分家して始まりました。和田藤八と妻は和田たい、長女の和田者つ、和田はつは、市川家に嫁ぎ、市川者つ、市川はつとなりました。
【家系図はこちら】

和田藤八家は、高祖母市川者つ(はつ)の実家にあたります。

【経過】
2008/06/27
 市川源十郎戸籍から、「源十郎」の母、「者つ」の実家が和田家であり、父「藤八」、母「たい」であることがわかりました。住所から見ると市川家と同じ大字のようなのですが、集落内の墓には一つも和田姓が見当たらず、不思議に思っていました。

2008/07/18
 「和田藤八」「たい」で戸籍を調べてもらうと、「和田藤八」で名前が一致する人が居たそうでした。係の方も頭を悩ませてもらったのですが、娘である筈の「者つ」の名前が無かったことから、繋がりが証明できないからと除籍謄本の発行は見送られてしまいました。

2008/12/05
たまたま隣の集落の墓を別件(傍系の分家の墓探し)で調査していたところ、和田姓の墓が多いことに気づきました。不思議に思っていたところ、冊子を持ってうろうろしていた私に、近所の方らしいおじいさんに声をかけられました。分家した家の墓を探していること、直系で和田家があるのだが、戸籍にある集落の墓には見当たらず、この墓地にはたくさんあるのを不思議に思っていると伝えました。すると、

「ああ、ここの大字は昔その大字名(戸籍にあった大字名)で、そこから分かれたんだよ」

と教えてもらって大変助かりました。そのうち、もう一人顔見知りらしいおじさんも話に加わってくれ、高祖母の父母名(「和田藤八」「たい」)を見せて心当たりがないかと尋ねました。

「江戸時代の人じゃあなあ…」

と言いつつもお二人は、

「多分、H兵衛さん所かもしれないが、もう跡を継ぐ者が出ていってしまって…今はどうなっているか…絶えてしまったんじゃないだろうか」

そのH兵衛さんは、おじいさんの古い記憶からして「おじいさん」と呼べるほどの歳のようで、

「これがその墓だよ」

と、現代の墓が並ぶ墓地の中にたった一つ、ぽつんといかにも無縁らしい小さな江戸時代の墓を案内してくれました。一緒にいたおじさんは、

「ああ、これ、あのH兵衛さんの墓なんだ」

と初めて知ったようでした。おじいさんの話では、

「このH兵衛さんの子供の名前がH八と言って、あなたの探しているご先祖の名前と一致する部分がある。推測でしかないけども」

というような話をしてくれました。

「私も昔、先祖探しをしていたが、桑名市に行き着いてそこから先がたどれなくなった」

という話もしてくれ、私の調査も好意的に、且つ励ましてくれた記憶があります。どうやらお二人は和田姓だったようなので、今にして思えば、ずうずうしく連絡先をうかがっておいて、この地域のきっかけを作っておけば良かったとも思います。

2011/09/18
 市川家法事にて、市川家伯父に和田家について尋ねてみました。
「和田家は昔、たった一度だけ法事に行ったことがある。確かに隣の集落にあったが、今はもう多分無いぞ」
とのことでした。従兄弟伯父も同意していました。

2012/02/24
 長女である「者つ」の生年から、「藤八」の生年を推測し、大まかな居住地域を指定し、改めて除籍謄本を申請してました。熱意が通じたのか、こちらが用意した情報と矛盾が見当たらないからか、「和田藤八」が隠居して在籍する、長男が戸主になっている除籍謄本を発行してもらえました。実に三年越しで、この時の感動はとても大きく、出してくれた係の方にどれほど感謝したかわかりません。これにより、「藤八」は、「利右エ門」の長男であることがわかり、さらに一代遡れました。長男なのですが、利右エ門家から分家したとあるので、今後、分家した「藤八」は、和田藤八家初代とし、利右エ門家は和田本家とします。
 その足で墓地へも行きました。「和田藤八」、「たい」の名前が見つからず、無縁仏になっているのかと諦めかけ、やはり最後にもう一度と見て回ると、発行した除籍謄本に出てくる名前を見つけました。「藤八」、「たい」の名前は入っていませんが、先祖代々となっているのでここに眠っていることは確実とみなしました。その墓は、「藤八」の長男の五女の名前で、和田姓のままで建てられていました。
 伯父達の情報から、無縁になっているのかもと思っていたものの、花は飾ってありました。同じ敷地で、すぐ隣に別姓の墓がありました。この墓は、除籍謄本によると「藤八」の長男の嫁の両親の墓のようでした。このことからも、この墓が和田藤八家のものであるのは間違い無いです。同じ花が供えられていました。果たしてどちらの家のご子孫がお参りされているのでしょうか。

【人物】
和田藤八[文政12~明治33]は、私の高祖母の父にあたります。父和田利右エ門の長男で、長女の者つが市川家三代目、甚右衞門に嫁ぎます。者つの父として名前のみ確認できます。者つが安政3年(1856年)生まれなので、藤八が15歳~45歳であったとするなら、文化8年(1811年)~文政~天保12年(1841年)生まれと推測されます。明治19年(1886年)に存命であれば、45歳~75歳なので、戸籍に載っている可能性もあります。大正5年に編成された戸籍では、亡になっているのでその時点では亡くなっているようです。実は過去にいなべ市役所で、この姓名が記載されている戸籍はあったようでしたが、結局番地が伝わってないことで、者つとの繋がりが証明できず、発行してもらうことはできませんでした。長男なのですが、慶応2年に、利右エ門家から分家しています。明治29年に長男K次郎に家督を譲り隠居しました。子は長男K次郎の戸籍に、弟Y蔵が藤八三男として存在しているので、少なくとも三男一女はあったようです。

和田たい[?~?]は、私の高祖母の母にあたります。高祖母の市川者つが最初に登場する明治19年式戸籍では現れませんが、大正5年に編成された子の源十郎の戸籍に者つが載っているお陰で、名前が判明しています。生年を藤八と同様の推測をするなら、文化8年(1811年)~文政~天保12年(1841年)生まれ、大正5年迄には亡くなっているようです。夫藤八が隠居し、長男K次郎の戸籍が編成された明治29年には名前がないので、既に亡くなっているようです。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・伯父夫妻が法事に出ていることから、香典帳に関わりのある方の名前が載っている可能性が高い。
・香典帳から次代以降の当主の名前が判明したら、旧土地台帳から、その大字の土地を虱潰しに参照して番地を探す。ただし、藤八の名前だけだと生きた年代から考えると載っている可能性は低そう。それと、上述の通り、同姓同名の和田藤八が居るのなら危険。
・番地と次代当主の名前から除籍謄本を再度請求してみる。
・もう一度墓を探す。上述のH兵衛さんの墓をもっと丁寧に撮っておく。一応。
・和田藤八が分家した初代で、別に本家が存在していることを夢見て和田姓の方々に手紙を出す。→なんとこの願い通りだった。本家の跡取りさんもいらっしゃるようなので、手紙を出す。

※何かご存知の方、関わりがありそうな方々メールまたはコメント宜しくお願いします。m(__)m
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