市川家[三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市]

ブログ | 2011/10/28 10:33
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可です。市川家初代、市川庄右エ門は、市川庄右衛門、市川庄右衛門または市川庄右ヱ門の表記のゆれが考えられ、市川庄助とも伝わります。市川家初代妻、市川里とは、市川りと読むかもしれません。市川家二代、市川源次郎は、市川源治郎とも伝わっています。市川家二代妻、市川りゑです。市川家三代、市川甚右衞門は、市川甚右衛門、市川甚右エ門または市川甚右ヱ門の表記のゆれが考えられます。市川家三代妻、市川者つは、市川はつと読み、元は和田家の和田者つ、和田はつです。市川家四代、市川源十郎は、幼名を市川榮次郎、市川栄次郎です。市川家四代妻、市川すへは、元は梶すへです。市川家五代、市川哲二は、元は松井家の松井哲二です。

【家系図はこちら】

私の姓である市川家です。現在の六代目当主が伯父にあたり、その弟で分家したOが私の父にあたります。というわけで、私自身は市川家分家市川O家の二代目になります。
父方祖父母が居た家でもあり、父だけでなく私にとっても実家というイメージがあります。両親が自営業だった私は学校が休みの日はよく預けられ、また七代目である従兄弟とも仲が良かったのでよく泊まったりもしました。

市川家は祖父哲二が簡単なものでしたが家系図をちゃんと遺しておいてくれたので、大変助かっています。祖父が亡くなった時、伯父がコピーしたものを我が家に分けてくれ、初めて家系図の存在を知り、とても興味深かったのですが、若かった私はそれを元に何か調べたり、まだしっかりしていた祖母Kに聞くこともしませんでした。(この家系図を以下哲二図と呼ぶことにします)

墓は近所の共同墓地にあります。幼い頃の記憶だと、各代毎に夫婦の墓が左から順々にいくつか並び、その中に一つだけ目立って大きく立派だったのが、五代目になる筈で戦死した亀太郎の墓でした。そして一番右の空いた場所は「私達が入るのよ」と祖母Kが教えてくれました。当時幼稚園ほどだったか、「これは誰の墓?誰が居るの?」などといちいち興味深く聴いてた私を、祖母は大変面白く思ったらしく、あとで伯父や父にさも面白そうに話してたことを覚えています。その頃から先祖というものに興味があったようでした。
今は五代目哲二が亡くなった頃に、一つの先祖代々の墓にまとめられ、代わりに墓誌が新たに設けられました。墓誌のお陰で読みやすいのですが、古い墓もちゃんと見ておきたかったなあと少し惜しくもあります。

順にさかのぼっていきます。

私の父は五代目哲二の次男になります。高校を卒業した後、福井の方の大学へ行き、卒業後そこで就職、結婚したので、十八年ほどしか実家で過ごしていません(三重には戻ってきましたが)。そのため、父に親戚関係のことを尋ねても「そういう事に興味を持つ前に家を出てしまったから」とおぼろげにしかわかりません。このことからも、ご先祖は自分で調べておかなければと思うことになりました。

伯父六代目は、五代目哲二の長男になります。本家の当主であること、父より四つ上ということもあって親戚先祖関係のことは当然詳しいです。最近ようやく家系図を作っているということを報告し、今後親戚などを紹介してもらうようお願いすることになると思います。本家としての過去帳は無いこと、お寺の過去帳も焼けて存在しないらしいということを聞きました。

祖父の五代目哲二[大正14~平成7]は、子がみんな亡くなってしまった四代目源十郎、すへ夫妻に養子として松井家より来ました。哲二の実母、松井つると源十郎は兄弟にあたります。市川家の血は入っていますが、私が男系でさかのぼると松井家にたどりつきます。哲二は教師だったので徴兵を免れたそうでしたが、広島で危うく原爆の被害にあうところだったとも聞きました。その後教育委員長、三重県北勢県民局長を勤め、三重県の植樹祭では昭和天皇をお迎えしたと聞きました。定年前は津市の商工会議所で常任理事という役職に就いていたように思います。その頃、一度だけ職場に行ったことがあり、大変立派なイスで、幼いながらに「祖父は偉いんだなあ」と思いました。私や父とは違って大変几帳面で読書家で収集家、井上靖やコイン、マッチラベル収集など数多くの影響を私に与えてくれました。元々が市川家でなかったのに、貴重な哲二図を遺してくれたことに感謝ですが、直接色々聞きたかったです。私の高校卒業後くらいに、転倒が原因とみられる脳出血で意識が戻ることなく亡くなってしまいました。悔やんでも悔やみきれないことの一つです。

祖母の五代目妻K[大正13~]は、四代目源十郎の弟の甚市の長女です。本家の隣に市川甚市家は分家として今もあります。本家を継ぐために養子に入った哲二に嫁ぎました。従兄弟同士になります。今でも「私は分家から本家へ(嫁に)行った」とよく言います。外で仕事をもっており、この年代の女性には珍しく、車の運転ができました。よくKが運転、哲二が助手席に居た光景を思い出します。七十代になり、認知症の兆候が出始めて車の運転を引退し、最後に乗っていた車は私の最初の車になりました。Kは健在ですが、認知症を患って十年あまり、日常会話は可能ですが昔の事はもうほとんど思い出せないようで、何か聞こうとしてもすぐ話を逸らされてしまうのがもどかしいです。極稀に興味深い情報を提供してくれますが、それが真実なのか、思い込みなのか疑わしくもあるのがまた残念です。子は伯父と父の男二人だけです。

養曽祖父の四代目源十郎[明治9~昭和29]は、三代目甚右衛門の長男で、幼名を榮次郎と言いました。父はうっすらと「牛を追っていた記憶がある」という程度です。弟の市川甚市家現当主(父の従兄弟)が、結構はっきり覚えているようで、「怖い人で、いたずらをした幼い自分達に本気で怒って追いかけてきた」と笑って昔話をしてくれました。妻すへとの間に五人の子供をもうけましたが、四人は幼くして亡くなり、唯一成人した次男で末っ子の亀太郎が戦争にとられ戦死するなど、とてつもない不幸に見舞われました。祖母Kが「兄や姉がみんな幼くして亡くなっていたから、『亀』太郎と長寿を願って付けたんだよ」と墓の前で話してくれた気がします。私は幼いながらに「結局名前負けしたんだなあ」と失礼な事を思った記憶があります。子が全て亡くなった夫妻は、妹が嫁いだ松井家から次男の哲二を養子に迎え、弟の甚市家からKを嫁に迎えて家を継がせました。

養曽祖母の四代目妻すへ[明治18~昭和29]は、梶家の三女です。上述の伯父の従兄弟は、「優しかった記憶がない」と笑っていたので、夫婦共に幼い親族の子供達からは怖がられていたのかもしれません。また、祖母Kも姑であるすへが「大変厳しかった」と言っていた、と親族の誰かが言っていました。

高祖父の三代目甚右衛門[弘化4~昭和2]は、二代目源次郎の長男です。市川家のみでみれば、養曽祖父源十郎の父なので、養高祖父なのですが、五代目夫妻(祖父母)の実の祖父でもあるので、他家を経由して私の実の高祖父と言えます。私がとれた除籍謄本で最もさかのぼれる戸主です。三男四女に恵まれ、その誰もが成人し、子をもうけたというのは珍しいのではないでしょうか。そのお陰で「うちは親戚がとにかく多くて」と今でも祖母Kは口にします。また、祖母が「じんにぇもさん」と、現代にない発音でこのご先祖を呼ぶのが新鮮でした。

高祖母の三代目妻者つ[安政3~昭和2]は和田家の長女です。名前の「者」は変体仮名で、「者」を崩した字「は」になります。

高祖父の父の二代目源次郎[文化13~明治43]は、初代庄右衛門の次男です。墓誌や哲二図には源治郎とありますが、戸籍は源次郎になっています。大変長生きしてくれたお陰で、甚右衛門の戸籍に入っていますが、戸籍から算出される没年齢と、墓誌にある没年齢にちょっと差があるのが気になります。明治24年に隠居し、甚右衛門に家督を譲りますが、源次郎戸主の除籍謄本は現時点でとれていません。そのため、甚右衛門以外の子供はほとんどわからず、哲二図頼りになっています。次男で二代目なので、幼い頃に亡くなった長男が墓誌に現れても良さそうなものですがありません。哲二図によると、上に清左衛門という男子が居るようで、中村家というところに養子に行っているようです。長男なのに養子に行くものなのかなあとも思うのですが、たかだか二代目くらいではあり得ることなのかもしれません。
「員弁町史」には、明治9年の伊勢暴動でに小屋を焼かれた被害者として名が挙がっていました。

高祖父の母の二代目妻りゑ[文政11~明治43]は、市川又左エ門家の長女です。同じ市川姓で近所のようなので、夫源次郎とは恐らく親戚同士なのでしょうが、証拠はありません。

高祖父の祖父の初代庄右エ門[寛政3?~明治6]は、市川家で遡れる最も古いご先祖です。戸籍では、源次郎の父としてのみ名前が現れます。墓誌と哲二図には庄助とありますが、他の家の戸籍の例で、隠居したら○右衛門から○助と改名した例を見たので、同一人物だとみなします。初めて哲二図を目にした時、「一番の先祖が庄助って、何だかぱっとしない名前だなあ」と思いました。この度除籍謄本をとってみて、「庄右衛門」という立派な名前(と、私がなんとなく感じてるだけ)があってちょっと嬉しかったです。私が勝手に初代と呼んでいますが、どこからの分家なのか不明で、現当主である伯父も知らないようです。ただ、近所に市川家はいくつかあり、そのうちの一つ、うちから最も近い別の市川家は法事に来たり、「うち(市川家)よりも古いらしい」と伯父が再三言っているのでいずれ紹介してもらおうと思います。

高祖父の祖母の初代妻里と[寛政2?~安政3]は、墓誌にのみに現れます。なぜか哲二図にも初代のみ庄助一人の名前で表されています。戒名から女性であることはわかりますが、墓誌には続柄が書いていません。ただ、墓誌で一番古いご先祖で、享年から生年を計算すると庄右衛門の妻でほぼ間違い無いとみています。なんと読むかはわかりませんが、おそらく「里」は元は変体仮名で「り」と読んで、「りと」なのではないかと考えています。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・上述の、戸籍や哲二図での繋がりは確認できないが、法事にも来ていて、うちよりも古いという市川家を訪ねる。
・寺ははっきりわかるのだが、伯父が過去帳は焼けていると言っていたこと、格式が高い寺のようで、住職は本山から任命されており、色々大学などで講義をしたりして多忙そうなので、とりあってもらえるかが心配。
・香典帳なるものがあるらしい。伯父には、それを引っ張り出してくれるよう頼んであるので、待ち。

他に興味深い情報としては、市川家の裏には、古い塚があり、昔から城跡とも私は聞かされており、昔祖母Kはそこから骨かなんかを見つけて届けたとも聞いた気がします。「員弁町史」に、その城の絵図が掲載されており、城主「多湖」、その周りに「市河」「輪波」「辻」の名前がなんとか読み取れました。この地域に多湖姓は非常に多く、近くにはとても大きな多湖家の屋敷がありました(現在は宅地として分譲され何もなくなってしまいました)。「輪」違いですが和波家、辻家もこの地域の名家として耳にしたことがあります。「河」違いですが、城の縄張り内にある現市川家と関連がある気がしてなりません。ただ、城と言っても、中世の城、城主多湖氏は豊臣秀吉に降伏して、小田原攻めで戦死したというほど古い話です。どこに聴けばいいのかわかりませんが、教育委員会か、郷土史などを研究されている方に聴けば面白そうな話が聴けそうです。

※何かご存知の方、関わりがありそうな方々メールまたはコメント宜しくお願いします。m(__)m
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匿名さんの2012/01/02 23:16のコメント
「市川Oさんという方が、中学の一年先輩におられましたが、そのご関係の方でしょうか。私の姓も市川で、幼いときには水貝味噌店の前に住んでいました。」

コメントありがとうございます。とても嬉しいです。存命者の名は一部伏せさせて頂いていますので、コメントの方一旦削除させて頂きました。すみません(こちらでコメント内容の修正はできませんので)。

お察しの通り、市川Oは私の父です。その一族のお話です。私自身はあの集落に居住したことはないのですが、近所に味噌店があったかと思いますが、そちらでしょうか?今は分譲されてしまったお屋敷だった多湖家跡の東側の?

父に匿名さんの心当たりがあるかどうか聞いてみます。

同じ姓とのことで、ひょっとしたら上の世代で何かしら繋がりがあるかもしれませんね。こうやって興味を持っていただいてコメント頂け、ブログを開設したかいがありました。
市川 | 編集回数: 1 | 2012/01/07 22:05
家紋同じ、市川、亡くなった祖父は福井県に住んでいた
ということで一致にびっくりです
匿名 | 2016/05/16 13:05
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